10月の言葉




()(こころ) 秋月(しゅうげつ)()たり 碧潭(へきたん)(きよ)うして (こう)(けつ)たり


この句は、『寒山詩』に、

 

 

吾心似秋月   我が心 秋月に似たり

 

   碧潭清うして潔たり

 

無物堪比倫   物の比倫(ひりん)()えたるは無し

 

教我如何説   我をして如何(いかん)が説かしめん。

 

 

とある五言絶句の起承(きしょう)の二句です。



また起句(きく)「吾心似秋月」は、秋の茶席によくかけられます。

 


吾が心、秋月に似たり


 

自分の心境をたとえるならば、

 

ちょうど秋の月のように 

 

 

清く澄みわたって一点の曇りもないのに似ているが、

 

月には満ち欠けがあるので、

 

 

「吾が心」のつねに円満無欠なことには、

 

 

とうてい及びもつきません

 


碧潭清うして皎潔たり


それならば

 

碧玉のように深淵の底の底まで 透き通って、

 

いささかの汚濁もない清らかな様子にたとえたらよいでしょうか。

 

 

 

いやいや、碧潭にも風が吹けば波立ち、濁ることだってあるので、

 

「吾が心」の清浄潔白さには、

 

とても比較できるものではありません。

 

 

 

このように、秋月に似ているといっても、

 

碧潭のごとくであるといっても、

 

 

 

それはあくまでたとえであって、

 

心の本体清濁はない。

 

 


物の比倫に 堪えたるは無し


 

人間の心の本質というものは、

 

何ものにも たとえる ということのできないものだ。

 

 

比較できるものではない。

 

 

無相のものである。

 

 


我をして 如何が説かしめん


 

そういう比較のできない心を、

 

何と説いたものであろうか。

 

 

説きょうは ないではないか

 

 

と、いうのがこの詩の 一応の解釈 であります。

 


吾が心(仏性)


 

私たちが所持している「仏性」(本来の自己)

 

何たるかを自得してほしいとの老婆心から、

 

寒山は、

 

この仏性を、

 

あたかも雲一つない秋の夜空に々と輝いている満月にも似ている。

 

 

また、あおあおとした深淵の清冽澄明なものに似ている―――と、

 

 

たとえたのが起承の二句です。

 

 

然し、そうはいってみても、たとえは あくまでも たとえであって、

 

何にたとえてみたところで、そのを伝えることは到底できない。

 

 

全くたとえる物なしで、こればかりは何とも説明のしようもない。

 

 

と、転結の二句を付けて、この詩を結んだのであります。

 

 


吾が心 秋月


 

 元来、月は玲瓏なる玉のごとく、また明鏡に似たるもので、

 

雲が かかろうが 

 

雲が はれようが、

 

依然として明玉、依然として明鏡であります。

 

 


秋清風月佳(あき)(きよ)風月(ふうげつ)()し)⋯――

 

月々に 月見る月は 多けれど

 

月見る月は この月の月


碧 潭(佛國寺前)


 

秋の月は、一年二ヶ月の中で、

 

一番、玲瓏さらに玲瓏、いわゆる月中の明月です。

 

 

その月に寒山は、自分の心を比し、較べたのであります。

 

 

ところが、秋月の玲瓏たるに見とれて、

 

 

一応、に比したものの、                  

 

よく月を見ると 月輪の中に 多少の曇りがある。

 

 

 

子供の頃、うさぎさんが餅を搗いているとおしえられましたが、

 

学者は山岳の蔭だといいます。

 

 

何れにしても、徹底的に玲瓏ではない。

 

 

 

故に、あらためて碧潭潔たるに比しました。

 

 

 

然し、心の中の心(仏性)に比較すれば、

 

その透明といい、その明白といい、その清浄といい、

 

到底くらべものになりません。

 

 

 

それで寒山は、秋月碧潭も 相手にすることを中止して、

 

前述の転結両句において 嘆声をもらしたのであります。

 

 


曇りなき 一つの月は 持ちながら

 

    浮世の闇に 迷いぬるかな

 

浮世の闇、

 

即ち、煩悩地獄、妄想苦海で七転八倒してきた私でしたが、

 

 

自分の弱さ、もろさ、愚かさ自覚したとき、

 

 

心の中の心――仏性(本来の自己)が見えてきました。

 

 


月は 無心  われは 有心---


いのちの森勧進・25日間下座行(平成20年10月 名古屋・栄)


【 愚 歌 】

 

わが心 仏もでれば 鬼もでる

 

地獄極楽 行きつ戻りつ

 

 

 

  さとったと 思ったあとに 腹をたて

 

    迷い迷って またまた さとる

 

 


私の心は、傷だらけ、ほこりだらけ、しわだらけですが、

 

 

凡夫も悟ればも迷えば凡夫の仏語に、

 

 

なるほどと思い、

 

 

くさらず、あきらめず、心の沐浴もくよくを心掛けています。

 

 

そのお蔭か、

 

迷いぬる 心の雲の 晴れぬれば 

 

智慧も情けも 有明の月

 

 

あたかも浴後の清々しさ

 

「吾心似秋月」の句を味わえる心境になってまいりました。

 

 

一歩一歩。

 

白露の おのが心を そのままに

 

(かえで)におけば (くれない)の玉

 


令和元年 10月 1日

            自然宗佛國寺     開山  愚谷軒 黙雷


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年の修行から お伝えしています。

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

皆様の「いいね!」や「シェア」が、著者の大なる励みとなっており、

ありがたく感謝合掌しております  住持職:釈 妙円


#寒山詩 #吾心似秋月 #碧潭清皎潔 #無物堪比倫 #教我如何説 #仏性 #明玉 #明鏡 #自分の弱さ #妄想苦海 #心の中の心 #月は無心 #われは有心 #凡夫も悟れば仏 #仏も迷えば凡夫 #白露 #紅の玉 #行脚 #下座行 #自然宗佛國寺 #愚谷軒黙雷 #釈妙円 #今月の言葉