12月の言葉




(かぜ)()けども(どう)ぜず 天辺(てんぺん)(つき)

 

(ゆき)()せども(くだ)(がた)し (かん)(てい)(まつ)


風が吹くと浮き雲は、風の吹くままに動いてしまいますが、

 

天上の月は、どんなに風が吹いても微動だもしません。

 

  それこそ「どこ吹く風」とばかりに、けろりとして天空に輝いています。

 

 

雪が降り積もると 多くの木が()(つぶ)されますが、

 

多年にわたり雨にたたかれ、風にもまれて成長してきた谷間の松は、

 

雪の重みなどには びくともしません。



これは要するに「天辺の月」底の松」に託して、

 

どのようなつらいこと、困難なことにあたっても

 

決して動じない信念と意志を持つことだ―という教えです。

 

この句の要点は、「動ぜず」ということと「摧け難し」というところにあります。

 

 

なお、この句には、「仏性」(本来の自己)にたとえ、

 

風と雪を煩悩妄想にたとえて、

 

仏性というものは、

 

煩悩妄想などのために動かされたり、汚されたりするものではない

 

という意味がふくまれています。

 


人間の本源のところ、

つまり人間が生まれつき持っている純真無垢の心性

これを「仏心」、「仏性」といいます。


人間は自覚している、いないにかかわらず、

 

本来、仏心というものを持っています。

 

ところが、この仏心に、無始以来の昔から「無明」というのがくっついています。

 

その無明によって仏心に いろいろな煩悩がわき起ってきます。

 

そこで、無明がくっついているから、

 

仏心煩悩がわいて出てくるのだ ということを自覚した場合、

 

はじめて煩悩の火は消滅する―――これが仏法の教えです。

 


人間が生まれつき持っている 仏心、仏性といわれるものは、

 

どんなに煩悩の嵐が吹いても 

 

消えて何処かへ行ってしまうということはない。

 

 

これが風吹けども動ぜず天辺の月ということです。

 

 


 底の松も 仏心、仏性の世界を表現しており、

 

圧している雪は、無明から起ってくる煩悩を意味しています。

 

無明とは、文字どうり明るくないことで、

存在の根底にある 根本的無知をいいます。

 

つまり、真実知らないというのが無明です。

 

 

では、真実とは何かというと、

 

いま述べたように、

人間は生まれながらに仏心、仏性を持っていることです。

 

 

それを自覚した人が仏陀(ほとけ)(真理に目覚めた人)

  

自覚しない人凡夫(ぼんぶ)迷いの境界にある人)といわれています。

 


凡夫も 悟れば仏、 仏も 迷えば凡夫



仏法は求道心をおこし、

努力精進すれば、

 

 

誰もが、仏陀になれる

 

 

という教えであります。


この句を茶会の床に掛けて、風雅を味わいながら、

 

その裏面の意味をくみ取れば、さらに味わいが深まることと思います。


令和元年 12月 1日

 

                  日本三大渓谷・伊勢大杉谷 

        いのちの森建立勧進佛行 願主  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年から得たものを お伝えしています。


下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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ありがたく感謝合掌しております  住持職:釈 妙円


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