雲去って山嶺露わる
雲が山全体を覆って何があるのかわからなかったが、
雲が消散するや山がくっきりと露わになった。
自然の清々しい光景をいい留めた言葉ですが、
山嶺を仏性に、雲を煩悩になぞらえて
悟りの境地をあらわした句で、
煩悩を吹き払うと本来具有の仏性が燦然と輝き、
はっきりとその相を現わすという意味です。
雨あがり(自然宗佛國寺 前)
私の心ひとつみても煩悩という雲が覆いかぶさり、
妄想、妄念に深くとざされると、自分の本当の地肌はみえません。
つまり、仏性が見えないわけです。
その煩悩の雲が消えれば、そこに正常な仏性があらわれ、
人間としての真実の在り方、世の中の正しいすがたというものが分明になり、
おのずから 心ゆたかな満ちた境地 にはいることができます。
釈尊は、六年の修行生活を続け、
30歳の12月8日、東天に輝く明星を一見した瞬間、悟りを開かれました。
釈尊が 悟りを開かれた菩提樹(ブッダガヤ・インド)
その驚きと感激に、思わず、
「一切衆生、悉く如来の智慧徳相を具有す。
妄想執着の故に証得せず」
「一切衆生悉く仏性有り、煩悩覆うが故に不知不見」
と連呼し、讃嘆されたと伝えられています。
すべての人にはみな、釈尊と寸分変わらぬ仏性が元来そなわっています。
しかし人は、いろいろな物事に執着してしまい、
いらざる想いを次から次へと、
雲の如く湧かせて、清浄なる仏性をおおい隠して、
自分自身を見失ってしまいます。
そういう心の雲を払えば、本来具有の仏性(本来の自己)にたちかえります。
煩悩 即 菩提(ぼんのう そく ぼだい)
――自分が煩悩(まよい)のかたまりだ と自覚できたら
菩提(さとり)、即ち、仏国土(さとりの世界)が見えてきます。
人生は、その仏国土への旅です。
「悟りは 迷いの旅路に咲く花である」
行脚 に 出発(鹿児島坊津秋目浦)
人生 は 徒歩
―――雲水(修行僧)の旅は 行脚で徒歩です。
門を出た時から目的地に向って
一歩一歩と 踏み出して行かねばなりません。
いつも平々坦々たる大道ばかりではない。
時には険しい山道もあり 高い山も越えなければならない。
また、いかに道を急いだからとて 二つの足を同時に出しては歩けません。
だからといって 二つとも止めていたら 何時までも同じ場所に居る外はない。
一歩を出しては一歩を止め、
出しては止め、
止めては出して 進むことができるのです。
それを楽をしようとして
一足飛びに進もうとすれば 引っ繰り返ってしまいます。
だからといって 諦めておれば、
これは 二つの足を止めた ようなもので、
どんどん後から来たものに 追い越されて 人生の落伍者となることを免れません。
一歩一歩出しては止め、
止めては出し、
急がずあせらず、しかも倦まずたゆまず、
一歩一歩、大地を確りと踏みしめて進むのが
行脚の行法(悟りを得るための修行法)であります。
【愚歌】―――行 脚
・顎ひて、腰骨たてて 黙々と
ただ黙々と 黙々と歩く
・峠こえ また峠こえ 峠こえ
またまた峠を 黙々と越え
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載。
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感謝合掌 住持職:釈 妙円
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