注 意 (意を注ぐ)
「意を注ぐ」というと、
何か大変むずかしい言葉のように聞こえますが、
よくその文字を見ると、私たちがふだんよくつかっている文字、
すなわち「注意」を 読みくだしたものだということがわかります。
「注意」とは、
一つのことに こころを注ぐこと、集中すること、
また気を配ることをいったり、あるいは一所懸命に努力することを意味します。
「危険、注意!」「事故、注意!」といった看板は、
私たちがふだんもっともよく目にするものです。
まさに、日常生活にとけ込んでいる言葉、それが「注意」です。
あまりにも日常よく用いる言葉なので、
ふだんは まったくといっていいほど気にもとめないものですが、
「注意」には 非常に奥深い意味が隠されています。
でも、ひとことに注意するといっても、なかなか思うようにはいきません。
母から「もっと注意深くなりなりなさい」といわれて育ってきましたが、
八十歳の老僧になっても、
これを実行しようとすると、なかなか容易なことではありません。
鳥窠道林禅師
そこで思い起こされるのが、中国・唐代の鳥窠道林禅師 と 白楽天との問答です。
中国・杭州の秦望山に 道林 という 声望の高い禅僧がおられた。
この和尚は、その資格があるのに大寺・名刹に住することなく、
山中の大きな松に板を渡して、禪床とし、
いつもそこで坐禅をしているという風変りな方であった。
それで、時の人は、鳥窠和尚と呼んでいました。
その頃、白楽天が 杭州の刺史(知事)となって赴任してきました。
白楽天は 香山居士と号して 仏法の真摯な帰依者であったから、
道林和尚 のことを聞くや さっそく訪問して、
「如何なるか 是れ 仏法の大意」(仏法のギリギリのところは、どういうものですか)と問うと、
道林和尚 は 言下に、
「諸々の悪を為すことなく、諸々の善を行い、
自らその意を浄くする、これが諸仏の教えである」
と答えました。
白楽天は、何か深遠な教理でも聞けるものと期待していただけに、
案に相違した
この平凡で わかりきった垂示(禅宗で、師家が修行者に教え示すこと)に、
いささか憤然として、
白 楽 天
「仏法の真義が そんな平凡なものであるならば、
何も禅師などの所に 足を運んで聞く必要はございません。
その程度のことなら 三歳の童子 でも知っておりますよ」
と反問すると、
和尚は
「三歳の童子も、これを知るといえども、八十の老翁も なお行じ難し」
ただ言うだけなら 三歳の童子でもできるだろうが、
いざ実行となると、
世の中のあらゆる経験をつみ、あらゆる学識をきわめ尽くした
八十の老翁でも難しいことだよ―――と諭されました。
これには、さすがの白楽天も 返す言葉もなく、
以後、道林和尚 の教導をうけた と伝えられています。
たしかに、わかっているけれども実行することは難しい
―――などということは よくあることです。
「注意」するということも その一つでしょう。
手作り山道
(一つ一つ石を手で運んで 心を込めて造ります / いのちの森)
ついうっかり 注意を怠ったがために、
大変な事故を 招いたりすることが よくあります。
私も 山作務(山仕事)をしているとき、
何かの拍子で気がぬけ、こころがゆるむと、
注意力が散漫して事故をおこし、怪我をすることがあります。
これは、その時、その場の仕事に
意を注ぎ、真心を込めて
作業をしていなかったために起きた事故です。
それで、その後は、常に 正しい反省 と 注意力をもって、
その意を 失うことのないよう心がけながら、
八十歳の山僧の体力にあわせながら 作務 に励んでいます。
いまここに 意を注ぎ 生きぬかん
限りある身の 力つくして
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日に掲載。
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感謝合掌 住持職:釈 妙円
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