自灯明(自らを灯明とする)
「自灯明」とは
「自灯明」とは、
釈尊入滅の三か月ほど前、
弟子のアーナンダが、
釈尊亡きあと、何を頼りに生きていけばいいのかと尋ねました。
すると釈尊は、
「わが亡き後においても、汝らはここに自らを灯明とし、
自らを依処(よりどころ)として、他を依処とせず、
法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせず住するがよい」
と述べ、
弟子たちに修行の在り方を、簡潔な言葉で語り残しました。
釈尊は、
自分の教えを 強要するのでもなく、
自分の言葉を 拠り所にせよ ともいわれなかった。
ただ、
この宇宙自然の世界を貫く理法を感得できるように
自己を訓練しなさい。
そして、そういう自己を拠り所にしなさいといわれたのです。
では、
この「自己」とは、
「法」とは、
どのような 意味 と 内容を持っているのでしょうか。
釈尊が説法をされた場(祇園精舎/インド)
自己 を 依拠とせよ
実に自己が 自己の依拠である
他の誰が 依拠たり得よう
よく訓練せる自己によりて
実に 得難き依拠を得る (『法句経』160)
ここに説かれている自己が 真の自我です。
「よく訓練せる自己」とは規範。
つまり「法」によって訓練された 自己のことであり、
単に放任された 無法の 自己 のことではありません。
一般にいわれる「自我」も「アイデンティティ―」も、
それが気随気儘で、
自己中心的な貪欲に基づくものであれば、
我見・我欲・我慢(我を恃んで自ら高ぶり驕る)などとなって、
仏法の無我(大我)とは 相容れません。
また それが単なる主体性という意味であっても、
その考え方や行動に
規範や標準がなければ
虚しい誤った「自我」となります。
仏法の基本―――四法印
釈尊成道の地ブッダガヤーの菩提樹
釈尊が菩提樹下で体得された
「縁起を見るものは、法を見る」
「法を見るものは自己(仏=真理に目覚めた人)を見る」
といわれている場合の法がそれで、
仏法とも呼ばれています。
この縁起としての 法の特徴を、
法の印として法印と呼び、
法印は 昔から三法印、四法印として伝えられています。
四法印とは、
諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静 という四つの教えです。
このうち一切皆苦を除いた三つが 三法印とされています。
まず、「諸行無常」とは、
この世のすべての行(現象)は
常に変化する無常のもの であるということです。
「諸法無我」とは、
すべての法(一切の有形・無形の事物)は、
他と関係なしに 孤立独存の固定したものではなく、
時間的にも、空間的にも周囲と関連した
相対的、相関的なものであるということです。
我とは 固定不変の実体、本体を意味し、
現象的人生には
固定したものや、状態がない
というのが無我の意味です。
「一切皆苦」とは、
一切の「執着ある」ものは すべて苦である ということです。
これは執着を持った凡夫(迷いの境界にある人)の状態をいったもので、
自我への執着のあるところには、
必ず苦が起こるということです。
「涅槃寂静」とは、
執着を離れて 涅槃という理想に到達すれば、
心は安定し、安楽になるということを意味します。
涅槃とは、
貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(愚かさ)など
すべての煩悩の火が消えてなくなった 最高の悟りの状態をいいます。
そこには 苦悩や憂いや悲しみが 全くないから 寂静といいます。
このような理想を妨げる
心情 や 習慣などが 煩悩です。
法 と 自己は 一如一体
「自己を依処とし、法を依処とせよ」
――これは二つのことをいわれたのではなく、
法と自己とは 一如一体、
たがいに相通じ、相応じる関係。
すなわち、法に照らされて、自らを省みる。
自らを通して 法をいただいていく、
これが人となる道の 基本姿勢であることを忘れるな――といわれたのです。
釈尊の遺言を
釈尊の遺言を頭で理解できても、
それを日常生活の中で実践できない私が、
自己を拠りどころとしたのでは、
とんでもない方向にいってしまうおそれがあります。
そんな頼りない私でしたが、
自分の弱さ、脆さ、愚かさを自覚した時、
釈尊の遺言が すうっと体にしみこんできました。
それからは 法を灯火として、
利己的で 常に我を立てて傲慢になろうとする自分に
ブレーキをかけるようになってきました。
そして、日々、自問自答しながら、
なんとか自分をコントロールしています。
なかなか容易なことではありませんが。
「さとり」とは何か
生きとし 生けるものは、
みなすべて 死なねばならぬ。 (釈 尊)・
人生は 死という 冷厳な事実に目をそむけることなく、
死を凝視するところから、
自らの死に方、生き方を 自得する修行道場で、
その修行が「完成」するのは、
まさに 自分が死に至る時です。
人生は無常迅速にして、時は人を待たずです。
常日ごろから、生死の問題を真正面から見つめて、
自らを拠り所とし、
怠ることなく 修行を続けるのが、
すなわち「さとり」となるのです。
釈尊臨終 の 最後の言葉
釈尊入滅の地クシーナガル/インド
釈尊臨終 の 最後の言葉
諸行(現象界)は 衰滅するものである。
君たちは放逸ならずして、
目的を完遂せよ。
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日に掲載。
皆様の「いいね!」や「シェア」が、著者の大なる励みとなっております。
感謝合掌 住持職:釈 妙円