神光照天地
神光天地を照らす
この禅語は、いろいろの意味にとれますが、
今は神光(光り輝く真実の自己)、
即ち、仏性の光は
天地間を照らして、
そのものの真実の姿を写し出していると取って下さい。
* 「仏性」(真実の自己)とは、
自然のありとあらゆるものに内在する真実の道理のことをいいます。
* 「真実」は、まことにして偽りのないもの、最高の真理という意味です。
仏性とは 即ち 是れ真実なり。
(インド・大乗経典『大般涅槃経』)
「神光照天地」の表面の意味は、
太陽が東の空から昇ると、
今までの闇夜は跡形もなく消えて、
天地の隅から隅まで明るく輝き、
人も起きいで、
草も木も小鳥も 万物は生き生きと精彩を放ち活動を始めます。
まことに 喜びに満ち満ちた光景であるということですが、
この句を揮毫する時、
私は長い迷いの夜が明けて、
さとり の 太陽が昇るという意味をこめます。
自然隋法=自然の理法に隋って生活するうちに
自己に本来そなわっている
仏性の慧日(仏の智慧を太陽に喩えたもの)が輝きだし
心やすらかにすごすことが、できるようになってきました。
一切衆生悉く仏性有り
仏教の中には、たくさん宗派があり、
いろいろな教えが説かれていますが、
その根源は、
仏祖釈尊の成道(さとりを完成すること)に発していることは 言うまでもありません。
釈尊は、三十五歳の十二月八日、菩提樹下で、
東天に輝く暁の明星を一見した瞬間
さとりを開かれました。
釈尊成道の地(ブッダガヤー)
その時の感激に思わず
「奇なる哉 奇なる哉、
一切衆生 皆 悉く如来の智慧徳相を具有す。
但、妄想執着を以ての故に証得せず」
「一切衆生 悉く 仏性有り、煩悩覆が故に 不知不見」
と連呼し讃嘆されたと伝えられています。
私たちは、賢愚・貴賤・貧富・老若・男女・美醜、ないし、職業・国籍・人種の別なく、
皆ことごとく 如来の智慧徳相を具有しています。
生れながらにして仏性という尊いものを持っているのです。
*「衆生」とは、仏法用語で、
一切の万物を その中に容れている「*自然」のことをいいます。
*「自然」について 日本と西洋の相違を少し述べます。
東洋、とくに日本人の「自然」の言葉の意味には、
西洋のネーチュア(自然)に見当たらぬものがあります。
西洋のネーチュアは、
いつも人間に対蹠(二つのものが正反対の位置・関係にあること)して考えられます。
それで 両者の間には 相剋的性格が出ます。
われ克たざれば、
彼のために敗られるということになる。
それ故、西洋では「自然(ネーチュア)を征服する」といいます。
東洋の「自然」は 人間に征服されるものではない。
人間は「自然」のもとに所在するもので、
もし それに そむくことがあれば、
それは人間から仕かけたもので、
結局、敗れるのは人間の方です。
西洋のネーチュアの二元的なるに対して、
東洋の「自然」は一元的包摂性であり
「自然」に打ち克つなどということは、東洋には無い考えです。
「自然」に随順すること。
もし それに克つように見えることがあっても、
その実は、それに随順することにほかならないのです。
俺が 俺が を無くして、自然の理法に随うとき、
自己は無心になり、
無心の自己が じきに「自然」になります。
山に参る
西洋の登山家は「山を征服する」といい、
日本人は「山に参る」といいます。
このように西洋人 と 日本人には、
自然に関する二つの概念の相違が存在します。
この両者の観念の違いは、
たとえ限りなく小さいものだとしても、
見方によっては、
限りなく 大きなへだたり ということができます。
無心のはたらき
太陽は、自然のままに、
無心に光り、無心に照らし、無心に輝きわたり、
人間はじめ万物を生育する。
そこには照らすものと、照らされるものの相剋はない。
無心と 無心が 合致して、はじめて真実となるのです。
太陽は 天地を照らすのに、
照らしてやろう という意志はさらにない。
故に、私たちも本来具有の仏性の光をあらわし
無心に 日常の動作の上に 輝きわたりたいものです。
初日の光さし出でて
四方に輝く今朝の空
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日に掲載。
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感謝合掌 住持職:釈 妙円