2月の言葉「いろは」



い ろ は



伊 呂 波(いろは)


いろは歌


―――は、仏法の説く道理を 身近な言葉で表現しているものです。

俗説によると、弘法大師の作であろうといわれていますが、

仏教学者の研究では、

 

平安時代中期の 誰か仏教徒の作らしい と推定されています。

 

ともかく、

 

これは日本人の心情を詠った 民族の歌 であるといえましょう。


いろは歌は、

 

『涅槃経』その他の仏典に出ている有名な

 

諸行(しょぎょう)無常(むじょう) 是生(ぜしょう)滅法(めつぽう) 生滅滅已(しょうめつめつい) 寂滅(じゃくめつ)()(らく)

 

という詩偈の邦訳です。

 


その意味は、


すべての現象(諸行)は因縁によってつくられ、

 

一刻も同じ状態で存在することはない。

 

そして これらの現象は

 

生じては やがて滅してゆく性質のものであり、

 

生じては 滅する。

 

そのような世界を離れた境地は 安楽である。

 

諸行無常とは、すべての現象は 恒常なる存在はない という意味ですが、

 

平易に表現すると、

 

「この世のものは、うつりかわる」と言ってもよいでしょう。


無常


人々は無常を見失っているから、

 

煩悶したり、嘆き悲しむのですが、

 

もしも無常ということが、

 

(のが)れられぬ道理である と 自己認識するならば、

 

煩悶も消えうせることになります。


「いろは歌」の説くところは、

 

この無常の道理を通じて 永遠不変なるものを見よということであります。

 

 

この永遠不変なるものを、

 

ダルマ(達磨)といいますが、

 

それを漢文では「法」と訳します。

 

「道」と訳すこともあります。

 

また今日なら宇宙の真理真実の道理)」と訳してもよいと思います。

 

だから仏陀(真理に目覚めた人)釈尊の教え(仏教)のことを

 

仏法といいます。



私たちは人生の真実の(すがた)を正しく把握するには、

 

その現実の世界の有り様

どのように理解するか ということが問題であると

 

同時に、

 

人間の在り方の問題でもあります。

 

仏法では、

 

この世界は造物(ゴッ)()によって造られたものではなく、

 

すべて様々な原因や条件の集合(因縁)によって造られ、

 

一刻たりとも 同じ状態に止まることはない。

 

 

そしてこれらの現象は生まれては やがて消えゆく是生滅法

 

 

この言葉は 現実世界の客観的事実を述べたものであり、

 

悲観的、厭世(えんせい)的感情を表現しているわけではない。

 

 

人間が誕生し、成長して大人になり、老いて やがて 衰え 死に赴くという事実も、

 

また人類社会の変化や進歩なども

 

すべて諸行無常範疇(はんちゅう)において理解されます。

 

 

あらゆる活動 や 進歩発展というものの根底には、

 

刻一刻 変化しているという 事実があります。

 

 

仏法は 単なる厭世主義や虚無主義ではない。

 

常に 人類社会の向上発展をめざす 建設的努力を 最も重視している

 

生きた世界の 生きた人間相手の 生きた人間学であります。


この現実世界には 恒常なるものは何も無いという事実。

 

宇宙も、自然環境も、

 

また そこに存在する人間や動植物も

 

常に古きものは滅し、

 

新しい生命 が 常に芽生えているのです。

 

 

しかし、この現実世界は 時間的な移り変わりだけでなく、

 

現在 という時点に限定してみても

 

独立自存なる存在はなく、

 

様々な原因や条件が集合して 成り立っています。

 

 

人間個人にしたところで、

 

父母より受け継いだ身体を持つ私たちは、

 

また 社会や自然の恩恵 をこうむっています。

 

 

 


生じては滅する


生じては滅する

 

という 有為転変 の 現実世界の在り方生滅滅已


 正しく認識することにより、

 

すべての こだわりやとらわれ を捨て、

 

何にも(わずら)わされない状態に達した境地は 平穏無事

 

まさしく 生死の相対的な苦楽 を 超越した 絶対の安楽境であるがゆえに

 

寂滅為楽といわれています。


すべては 無常である。

 

怠ることなく実践し、それを完成しなさい

 

―――上の句は釈尊が亡くなられる時に説かれた教え、つまり遺言です。

 

 

無常とは

 

万物の在り方の事実を示す言葉で、

 

すべての存在は 常に変わりつつあり、変化する過程にある。 

 

というのが言葉の原意です。

 

 

これは 現代の自然科学の見るところと矛盾していないし、

 

仏法の 最も基本的な世界観、自然観だといってもよい。

 

 

だが、無常

 

こうした万物存在の在り方を示す言葉とのみ理解するのは、

 

実は 不十分です。

 

 

無常には

 

別の次元で解釈すべき性格があり、

 

むしろその方が

 

無常 本来の意味を示しているといえます。


それは何か?


釈尊 老病死の悩みを 解決しょうとして出家した。

 

そのとおりですが、

 

実は 老病死を悩んだ のではない。

 

 

釈尊は 老病死をとし、具体的な項目としつつも、

 

即ち不得ふとく」の 自己認識が 根底に横たわっています。

 

 

実は 得ることのできないものを求めて、それを得ざる 苦しみ、

 

老病死そのものよりも、

 

老病死を

 

自分の必然なものとして 受けとめえない 自我 に悩んだのです。

 

なぜ、すべては思いどうりにならないのかというと、

 

釈尊は まず万物は無常だから と答えた。

 

 


釈尊が 初めて説法をした地 サルナート(初転法輪)


すべては変化の過程にある。

 

移りゆくことが 本当の姿なので、

 

若さ、健康、生命、富、名誉、愛、

 

その他どんなものも 同じ状態に止まることがない。

 

今それを得たと思うと、

 

次の瞬間にそれは過ぎ去っていく。

 

しかし、

 

私たちは無常の事実を、

 

あるがままには、受けとめられない。


理屈でわかっていながらも、


理屈でわかっていながらも

 

無常なるものを

 

常なるものとして受けとめたいという欲望、煩悩に振り回されています。

 

 

無常を「あるがまま」に見る

 

ということは 大変に難しいことです。

 

 

例えば、最愛の子供を失った母親は、

 

その 死 という事実を すんなりと受け入れられるだろうか。

 

 

癌で余命半年と宣告された時、

 

自分の生命の無常さを「あるがまま」に見て取り、受容し、

 

平然と覚悟した生き方が 簡単にできるだろうか。

 

 

しかし、

 

その反面、

 

自分 に なるほどと 無常を無常として生きてゆくのでなければ、

 

苦、不安 本当の解決がないのも確かです。


釈尊は、


釈尊は 自己存在の不安の原因を求めていって、

 

無常煩悩に突き当たりました。

 

 

そして現実世界の無常を 自己認識し

 

無常を生き抜いていくところに

 

 人生の問題の解決を得ました。

 

 

そうした仏法的な脈絡から導かれた真実が、

 

たまたま自然科学的な真実と一致したということです。

 

 

だから、

 

無常を、

 

単に、「すべては変化する」という客観的な真実とのみ受け取ると、

 

本来の重要な 仏法的意味 を失うことになります。


涅槃の地(クシナガラ )


釈尊にとっては、

 

無常とは「すべてのものは無常です」というものではなく、

 

 

私が無常なのだということであり、

 

その思いを抱きかかえつつ、

 

 

 

釈尊は 無常は無常として 自己認識しつつ 生き抜かれました。

 

 

それこそが安楽な生き方であり、充実した人生であり、

 

釈尊自らも それを実践され、人にも説かれました。

 

 

そういう釈尊だからこそ、

 

死に臨んで、

 

怠るなく 無常を実践せよと、

 

遺言されたのだと思います。


これは 仏法のいろは であると同時に、

本 義 でもあるといえます。


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円