一大事(いちだいじ)
「人生の一大事」
「わが社の一大事」
「すわ一大事」など、
みなふだん使っている言葉で、
いうまでもなく、
「容易ならぬ出来事(大事件)」をいいます。
「一大事」は仏法用語で、
もとは「一大事因縁」として用いられていましたが、
「因縁」がとれて一大事となり、
一がとれて「大事」となりました。
「一大事因縁」の語句は、
漢訳『法華経』の「方便品」に
「諸仏世尊(覚者・真理に目覚めた尊い人々)は、
ただ 一大事因縁を以ての故に 世に出現す
(ただ一つ偉大な目的・仕事を成就するために、この人間世界に出現す)
-------衆生をして 仏知見(仏の智慧)の道に入らしめん と欲するが故に----」
の中にはじめて出てくる言葉です。
前述経典の内容の中において、
ただ一つの偉大な目的 と 仕事のために
というところが 一大事因縁にあたり、
仏法(釈尊の人間教育学)の「一大事」はただ一つ
「救済を待つ衆生がいる」ことで、
「衆生救済」が仏法にとって「一大事」なのです。
一大事は まさに 仏法の本質であって、
仏法の存亡 に かかわる重要な言葉なのです。
一大事と申すは 今日只今 の心なり
白隠禅師の師 道鏡慧端禅師、通称正受老人は、
生死を超える 一日一日の大事さを
『一日暮』の中で次のように説いています。
「一日は 千年万歳の初めなれば、
一日よく暮らすほどの勤めをすれば、
その日は過ぎるなり。
また あいても無き事を苦にして、
しかも翌日に呑まれ、その日怠りがちなり」
「今日一日暮らす時 の 勤めをはげみつとむべし。
如何ほど苦しみても、一日と思えば 堪え易し」
「一大事と申すは、今日只今の心なり、
それをおろそかにして 翌日あることなし。
すべての人に、遠き事を思いて謀ることあれども、
的面の今を 失うに心づかず」と。
道鏡慧端の住まい 正受庵
今日 只今に 生きる
人生で一番大切な日はいつか と聞かれて、
さてと首をかしげる人は、
ここで 一度立ちどまって
人の生をうくるはかたく
やがて死すべきものの
いま生命あるは、ありがたし
(法句経)
の句を噛みしめ味わってみて下さい。
生きること の 大事なことは言うまでもないが、
その確実に 生命のある日は、
今日だけです。
今日の中でも、
今という時を、
どう生きるかが 大事なのです。
人生に「そのうち-----」「いずれまた―――」もない。
あるのは「今、目の前の今」だけです。
いまここに意を注ぎ 生き抜かん
限りある身の 力つくして
この今を勝負に出ないと、
勝負に参加することはできなくなります。
自己実現の好機は、
今、全力を尽くして生きている か どうかにかかっています。
今、いい加減に生きていて、
いつ、全力を尽くして生きられるだろうか。
人生の一大事は、
今、この一瞬 を 燃えているかどうかなのです。
即今(いま)・此処(ここ)・自己(われ)
—――今、ここ、この一点に 生かされ生きて存在する自己。
「今、ここにいる私」
「今、目の前の今」
このほかに 大事なものはない といってもよい。
・永遠の時の流れを便宜上、
過去・現在・未来と分け、
昨日・今日・明日といっているが、
過去は過ぎ去ってすでになく、
未来はいまだ到来していない。
あるものは今日只今の一瞬だけです。
その現在の一瞬が
*前後際断 *刹那生滅しながら 一連につながっているのです。
存在するものは 実に瞬間ごとに
その姿を変えているのです。
*前後際断: 前際(過去)と後際(未来)との間に断絶があること。
すべての存在は 刻一刻と変化生滅しながら連続し、連続しながら断絶していて、
その断絶の一刻一刻に 真実永遠なものがあるという。
*刹那生滅:一切の事物が 生じては 滅していくことを 瞬間の間に捉えたもの。
瞬時の間に生滅があること。
一瞬一瞬 に 生滅が繰り返されること。
人生は 今日只今の一瞬だけです。
一瞬一瞬が生であり、また死である。
したがって どんな長生きしようとも、
生きているのは
実にこの一瞬においてであり、
この現前の一瞬をはずしては
何処にも 生は あり得ないのです。
安心を求めるには、
今日只今、
その場で 自分を活かしきることです。
過去や未来を思うことも、不安に陥ることもない。
「今、ここで」精いっぱい生きること。
明日あると考えず、
今日一日 を 心ゆたかに充実して生きる。
その一日一日の積み重ねが
人生であります。
任せきった心境に立って
一切を素直に正受し
今日只今に生きる
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日に掲載。
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感謝合掌 住持職:釈 妙円