7月の言葉「生苦」



四苦八苦(しくはっく)その2


ー人生を苦しくさせる八つの原因—―



二話 四苦(生老病死)


一、生 苦—―生れ、生きていくことの苦しみ


根本仏法(釈尊の人間教育学)では、

生・老・病・死の四苦を、

 

人間の基本的な苦しみとしています。

 

このうち、生苦がどうゆうものか、

 

中村元博士の『佛教語大辞典』をみると、 

「四苦の一つ。託胎から出生までの苦しみ」とあります。

 

これは人間が生まれるときに体験する、 

狭い産道を通過する苦しみだという意味にとれます。

 

しかし、それは短時間の苦しみであって、 

四苦の一つにならないと思います。

 

 


実はこれは、 

古代インド人の考え方である業(行為)と輪廻転生の考えが 

背景にあって、理解されることであります。

 

 

輪廻転生死者あるいは過去の存在が、 

再びこの世に生をもって再生するという思想は、

 

釈尊の教えにおける

輪廻観 因果の法則 に 

依拠(いきょ)しているように思われていれますが、

 

この再生するという思想は、

 

元来、釈尊の教えにあるのだろうか?

 

再生・転生思想の原点とされる

輪廻 と 業 について考えてみたいと思います。

 

 


業(ごう)


先ず、というと、 

すぐ「業が深い」「因果」「業病」「自業自得」「非業」の言葉が連想されます。

 

いずれも 

前世の行ないの結果によって生じた

不可避的、宿命的な報いという色合いがあります。

 

 

ここで誤解のないように、

まず大まかな道筋を押えておきたいと思います。

 

業思想は、古代バラモン教で成立したもので、

 

釈尊をはじめ仏教者たちの思想の背景には、

バラモン教の風土があったという点です。

 

釈尊にとっても業や輪廻が大きな問題でした。

 

だが、

釈尊自身は 不可解な人間の死後の命運については、

何も語っていません。

 

釈尊にとって

人間の死後界よりも、

今いかに生きるかのほうが重要問題でした。


その意味で釈尊の教えでは、

業も輪廻も直截的に語られたことはなく、

むしろ批判的でした。

 

 

しかし、釈尊以後、

釈尊の教えから外れた仏教が、

バラモン文化と融合し、

変容していく過程で、

 

いつしか釈尊忌避した業・輪廻観が受容され、

今日の仏教の根幹となっていったのです。

 

元来、釈尊の教え 輪廻思想は 矛盾します。

 

釈尊は あくまでも人間苦の克服を教えたのであって、

 

輪廻にかかわる不可解な死後界についての質問に対しては、

黙して答えませんでした。

 

今日、只今をいかに生きるかのほうが

一大事だったのです。


六道輪廻(ろくどうりんね)


六道とは、

私たちが業因(ごういん)(苦楽の果報を招く因となる善悪の行為)によって

 

輪廻する 六つの迷いの世界をいいます。

 

仏教評論家のひろさちや氏が輪廻転生について


仏教においては、我々は好むと好まざるとにかかわらず、

それこそ無理やり生れ変わらせられるのである。

われわれが生まれ変わる世界に六つある。

 

  天界 ②人間界 ③修羅(魔類)の世界、④畜生界⑤餓鬼の世界 ⑥地獄界であって、

 

どこに生れるかは、

この世においてわれわれがやった行為(善業か悪業か)に応じて決まる」

(『仏教とっておきの話366頁―夏の巻―』と、

 

釈尊の教え とは違うことを述べています。


歓迎下さった長老達
ゴーダマの渡し
(パトナー郊外チェチエル村)


正伝仏法禅の古徳


一方、正伝仏法禅の古徳は、

 

・地獄道(心に常苦あり、この処を地獄という)

 

・餓鬼道(心に貪欲あり、この処を餓鬼という)

 

・畜生道(心に愚痴あり、この処を畜生という)

 

・修羅道(心に怒りあり、この処を修羅という)

 

人間道(心に苦楽在り、この処を人間という)

 

・天上道(心に常楽あり、この処を天道という)といっておられます。

 

 

この禅の古徳の六道輪廻の教えは、 

 

私たちの日々の生活

心の迷いの世界を

ずばりといっているのではないのでしょうか。


【愚 歌】

 

・わが心 仏も 出れば 鬼も出る

 

地獄極楽 行きつ戻りつ

 

 

 

・浅ましや  人の善し悪し  口にする

 

悲しきものは  わが心かな

 

 


自分の心


自分の心は

車輪の回転してきわまりないように、

 

  六道の迷いの世界で 一喜一憂(いっきいちゆう)し、

  心が晴れず、悩み苦しみ悶々と生きてきました。

ですから、

これまでの私は生きていても、生れてきても、

いたずらに七十年、八十年の人生を送って、

生きている意味がわかりませんでした。

 

だから、

外界から

見聞覚知(見ること聞くこと覚えること知ること)という

が襲来し、

 

内界から

情欲(ものを貪り執着する心)意識という

に迫害され、

 

七十年、八十年生きても、

その七十年、八十年が本来の自分自身の生涯でなく、

 

内魔外賊に支配されて、

心ならずも夢のような、幻のような生涯を送ってきました。

 

実に一個の人間として、残念なことだと反省しました。

 

そこで、

自分の甘さ、ぐうたら心に喝を入れて、

自分自身について、

外に向って尋ねず、

 

内に向かって、

自分に問いウンと修養するように、心掛けると、

心のもやもやが消え去り、

日々平穏無事に過ごすことができるようになってきました。



生苦を超えるには


(こう)(じん)万丈(ばんじょう)・利害得失の渦まく娑婆世界で

生きていくということは、

まさに生苦の世界であります。

 

私たち人間は、

いかなる処に身を蔵するといえども、

を脱することは到底できません。

 

は影の身に随うように、

この身のある以上は、

に随順するものと思わねばなりません。

 

しかし、

 

 人は人生苦、 人間苦に逢い、

それを打開する度に

ぐっと ぐっと 大きくなって行くものです。


苦の原因は 我欲にありー


苦の原因は、

 

自我(エゴ)中心の欲望、

すなわち 我欲にあります。

 

この我欲の拡充には限りがない。

 

際限のないものを、

そのままのばしてゆくと、

これで よし ということはありません。

 

そして、我欲が膨張すると 苦しみを多発します。

 

私たちを苦しめる我欲は、

 

何処からやってきたものでもなければ、

 地面をつきやぶってきたものでもない。

 


それは

自分の行為 の なせる(わざ)です。

 

だから、

我欲は何処かにあるものでもなく、

押し付けられたものでもない。

 

それは

自分自身の行為によって作られたものです。

 

そして、

その責任は 行為の主体 にあります。

 

 


欲の力 を 生かす


欲の力を生かす

―今日、人間の欲望を、

政治的、経済的、社会的に開発はしましたが、

 

その欲望が、

人間の智慧

つまり、

対象を正しく捉えて、

 

真実の道理を見極める能力を離れて、

人間を押しつぶそうとしている時代であります。

 

私は、この欲の力こそ、

人間の行動の源泉であり、出発点であり、

 

生命と同じように

尊いものであると捉えています。

 

 


人間の欲


人間の欲というものを、

世の中の人々が重んじるようでいながら、

その実、

これを軽視し、侮蔑(ぶべつ)していることに対し、

私は強い疑念を抱いています。

 

ただ、

その欲をそのまま放置せず、

智慧の光で、

 

その方向を与えて、

自己中心の欲から、

 

自らも利益を得、他の人々をも利益する 自利利他の欲へと変革する。

 

要するに、

 

欲を押え殺すのではなく、

 

智慧の光で 欲の力を生かし、

 

欲の発動を 最も活発にして、

 

名利の欲を

 

自利利他の法 を行じる欲に変革する。

 

そして、

自己を 最も人間らしく生き抜こうとする人間

変えることにあります。

 

 


真実の自己 に 生きる


真実の自己に生きる――

今日は、混乱の時代であり、

価値喪失(そうしつ)の時代であるといわれています。

 

だからこそ、

人間本来具有の「仏性」真実の自己とは 何かを知り、

 

真実の自己に成り切って 生きることは、

今日 最も必要なことであります。

 

特に、人間が作り出したものが、

人間から独立して 

逆に人間を支配するという、

 

現代社会の、現代文明のなかで、

疎外されて生きつづける以外にない現代人にとって、

 

その疎外を 克服する道は、

 

真実の自己 に価値を置き、

 

その自分に

徹し切って生きる しかないのです。


現代社会を 現代文明を、

自分自身の足下に確り捉え、踏みしめて、

 

人間の欲望を 

 

人間の智慧の支配下に置き、

 

欲の力を 自利利他の法を行じる へと

開発していく。

 

そのためには、

 

真実の自己

最大最高の価値を置き、

 

その上に立って、

自分自身の判断、

 

自分自身の命ずるところに従って生きることが、

今日最も必要であります。


自己を発見し、

 

自己を開発し、

 

自己を確立して、

 

真個の独立人として生きる。

 

これが、「生苦」を超える生き方であります。

 

 


釈尊が説法された香室趾
(霊鷲山山頂)


『四苦八苦』(その三)―二話『四苦』(生老病死)

 

「二、老い衰えていくことの苦しみ――老苦」に つづく―― 


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円