10月の言葉「死苦」



四苦八苦(しくはっく)その五


―—人生を苦しくさせる八つの原因—―



二話 四苦(生老病死)


四、死 苦―死を逃れえない苦しみ


生死(しょうじ)事大(じだい)無常(むじょう)迅速(じんそく)

 

光陰(こういん)()しむ()し、(とき)(ひと)()たず


生死の問題は、きわめて重大である。

 

しかし、時は無常にして迅速、あっという間に過ぎ去ってしまう。

 

生死とは生老病死の四苦における始めと終り――― 一生


     私たちが、この世に生を受けてから数十年間、

 

  いかに健康であっても、

 

  いかに財産や名誉、地位を得ても、

 

  また、いかに医学や医療技術が発達しても、

 

  止めることのできないものが

 

  「時」であります。

 

   歳月は 刻一刻と流れ 一時(いっとき)も待ってくれません。

 

   時は人の体を老いへと導く、

 

     やがて老いの身となり、

 

      病気に侵され、

 

死ななければならない時を迎えます。


  生きとし生けるものは、みなすべて死なねばならぬという

 

釈尊の言葉は、

 

恐ろしいまでに事実を 私たちにつきつけています。

 

 

釈尊は、

 

死という冷厳な事実に目をそむけることなく、

 

死を凝視するところから

 

悟りを開かれました。

 

そして、「今日只今をいかに生きたらよいのかの道」

 

を説き示されたのであります。


  道元禅師

(しょう)(あき)らめ()(あき)らむるは、仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)なり

との言葉があります。

 

   これはひらたくいえば、

 

「生とは何か、死とは何か、

 

  生死(いきしに)に(しょ)していかにあるべきか、

 

いかなる生涯をおくるべきか、

 

ということは、

 

仏家(仏法の教えを学び実践する者)として、もっとも大事なことである」

 

ということであります。

 

このことは、仏家にとってだけではなく、

 

人間一般としても、もっとも大事なことであります。

 

 

よくいきがいといわれますが、

 

生死の意味を正しく明らめるのが、

 

生きがいの根源となります。


  道元禅師は、

生涯をかけて、

生と死に立ち向かい、

死から目をそらすことなく、

 

やがて死すべき自己を見つめ、

生を充実させて、

生死を超える境地を切り拓かれました。

 

とかく私たちはと考えがちですが、

 

生と死は、

いわば紙一重のところで表裏しているのです。

 

この点をまず確認するのが、一大事なのです。


私は若い頃、

健康なときは 生死の問題 を深く考えませんでしたが、

 

ひとたび病気にかかり、身近に死に直面すると、不安が湧いてきました。

 

同時に

初めて 生の尊さ を知るようになりました。

 

そして、死に直面して死を恐れ、

生を望んで煩悶しました。

 

しかし、人生は無常迅速にして、時は人を待たずであります。

 

ですから、

常日ごろから、生死の問題を真正面から見つめて、

 

   安心の境地を求める努力が、

 

  人生の何ものにもまさる 一大事 であると自得しました。


生死は、

ほかならぬ 自分自身の一大事 であり、

 

待ったなしの問題であります。

 

明日の生命は 誰にもわかりません。

 

生死事大であり、無常迅速なのです。

 

   だからこそ光陰を惜しんで、

 

      一日一刻、

 

   今、その場

   自分を活かし切る努力を していくことが大事であります。


死ぬ前にやる仕事


沼田恵範翁が設立された仏教伝道協会の『八正道シリーズ・正命(正しい生活)』に

 

 ネパール・タライ平原の野生生物保護区「チトワン国立公園」(東西80㎞、南北23㎞)に

  生息するインドサイが、

  死ぬ日が近づいていることを知って、

 最後の仕事をする話しがあります。

 

 省略して紹介します。


イトワンの密林のところどころに大きな穴があるので、ガイドに聞くと、

 

やがて死を迎えるサイが作るとのこと。

 

「墓ですか」と聞いたら、

子孫のための “水()め ”だと教えられました。

 

老いたサイが身を横にして回転させ、

雨を溜めるための穴を作る、

 

この仕事は集まった子孫の見ている前でやるのだそうで、

 

八ヶ月間の乾期に多くの動物たちは

水がなくて死んでいくのに、

サイ一族はその水を飲んで生きながらえるのだそうです。

 

他の動物がそれを知って飲みに来ても、

サイはけっして怒らない、とのこと。

 

この水溜め作りの仕事が

代々受け継がれていくので、

サイは何万年も生きられるのだそうです。

 

そして、

この穴を作ったサイは、

必ず一週間以内に密林の奥へ行って、 

息を引き取る、ということでした。


―――私は、

このサイの「死ぬ前にやる仕事」の話を知り、

 

感動すると同時に、

自分の生き方の甘さを反省させられました。


時人を待たず


―――時の流れは速く、

あっというまに過ぎ去ってゆきます。

 

人間以外の植物や動物などは、

サイのように 自然の理法 に随って、

 

時の流れを知り、

それに順応して生き、

そして 死んでゆきます。

 

人間も 確実に秒刻みの時間に乗って、

 

今、その場に、

生かされて 生きて存在するのですが、

 

ところが、

自分は日々の雑事にかまけて、

 

刻々と過ぎ去ってゆく時の流れのことは、

 

ついつい忘れがちになっています。

 

そういう甘い生き方の私ですから、

山の草木や小鳥、夏の虫、

秋の虫などの生き物と問答をして、

彼らに今を生きよと教えられています。

 

咲くもよし、散るもよし、

 

花はなげかず、今に生きる


門松は めいどの旅の 一里塚

 

馬かごもなく とまりやもなし

 

一休禅師の道歌です。


馬、かご、とまりやは、
      今なら交通機とホテルや旅館となります。

 

正月の門松を立てるごとに、

死に近づく、

 

乗物も宿舎も行路の標識もない
     死出の旅路のスタートが迫る事実に、

昔も今も変わりはありません。

 

これは生をみつめず、

死を凝視せぬ人々への、

一休さんの痛烈な警告であると同時に、

 

「今を大切に生きよ」という教えであります。

 

「人生で一番大切な日はいつか」と聞かれて、
       さてと首をかしげる人は、

 

ここで一度立ち止まって

一休さんの道歌を噛み締めてみてはいかがでしょうか。


  人生は、ある意味では、

 

 生まれ落ちると、

 

 ただひたすら、

 冥途への旅をつづけているといえます。

 

人の生命は、

いつ終わるか

誰にもわかりません。

 

自分の命が 自分のものではない

 

今日も 明日とも 知れない命、

 

だが、

冥途に行くことが決まっている

と腹を据えれば、

 

あわてることはありません。

 

人生は、

ただ ひたすら死に向って進んでいく。

 

だからこそ、

一分一秒を争って、

 

学べるときに学び、

 

励めるときに励み、

 

やるべきことをやってしまう。

 

 

人生にそのうち―はない。

 

いずれまた―もない。

 

 

確実にあるのは

 

今日只今だけであります。

 

   その今日只今を、

 

   どう生きるかが

 

   人生の一大事であります。



人の生をうくるはかたく

 

やがて死すべきものの

 

いま生命(いのち)あるはありがたし

 

(『法句経』一八二)


『四苦八苦』(その六)第三話『八苦』に つづく――


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円