12月の言葉「怨憎会苦」



三話 八 苦



三、怨憎会苦

—―怨み憎んでいるものに会う苦しみ


これは愛別離苦とはまったく反対に、


怨み憎しみあう者 や 

虫の好かぬ者、

馬の合わぬ者、
さては仇同士でも

 

縁があれば、

嫌でも

常に顔を合わせなければならない苦しみです。 

人生は皮肉なもので、

いつまでも一緒にいたいものとは

別れなければならないのに、

 

嫌な人間とは
常に顔を合わせなければならないのです。

 

ですから、

どうしても 

そこに人間関係の不足がでてきて

ギクシャクした関係になります。

 

しかし、

 

はじめから、

怨み憎しむ人間はいないのです。

 

それが

お互いの思いを通そうと「我」を張り合ううちに、

 いつしか 怨み憎しみ合う仲になります。


また、何処にでも意地の悪い人はいます。

 

会う度に嫌味をいう人、

嫌がらせをする人、

難癖を付ける人などなどと

 顔を合わせるのは嫌なものです。

 


木喰五行上人


でも、

「イヤだ、イヤだ」と思っていると、

自分の心がさもしくなりますので、

 

意地悪な人と会った時は、

 

木喰五行上人の

   まるまると まるめまるめよ わが心

 

まん丸丸く 丸くまん丸

 

の歌を口遊むと、

 

心がコロコロ、コロコロ、コロがって

 

だんだん角がとれて

丸くなり、

自然に顔が和んできます。

 

 


嫁と姑


 昔から 嫁と姑の関係ほど難しいものはない。

 

まして、

憎しみあっている者同士が、

一つの屋根の下で 暮らさねばならぬ苦しみは

想像に難くない。

 

しかし、

 

(はた)から見ていると、

 

嫁姑の問題は、

 

 自分の立場を

ほとんど反省していないようにおもえます。


嫁も姑も「六阿弥陀詣」 十返舎一九 作


息子のところに嫁が来ると、

 

大概の姑が

 

「今日から 私はあんたを娘のように思うから、あんたも 私を母親のように思って頂戴ね」

といいます。

 

もちろんこれは、

姑からすれば

「今日から母娘(おやこ)のように仲良くしましょうね」 という

 

親愛の情を表現した言葉に違いないのですが、

 

もう一度、

姑の言葉 を 繰り返してみると

 

「今日から 私はあんたを娘のように思うから、あんたも私を母親のように思って頂戴ね」と、

いっているのです。

 

つまり、

二人の仲は、

この言葉がズバリ表現しているように、

 

あくまで「よう」なものです。

 

実際に血がつながっている者なら

間違っても「よう」などという言葉はつかいません。

 

この「よう」という言葉が 曲者なのです。

 

つまり母娘もどき」といってもよいでしょう。

 

テレビドラマならば、

母娘もどき」もけっこう視聴者を泣かせたり、

笑わせたり、親密にみせかけたりすることができますが、

 

実生活の中で

五年十年と 芝居が続くわけがありません。

 

まやかし物

かならず メッキがはがれます。

 


では、

嫁と姑は

どういう関係をむすんだらよいのか。

 

まず、嫁と姑は他人であることを

はっきり自覚しあうところから

出発すべきだと思います。

 

そしてあかの他人

一つの屋根の下で生活するためには、

 

当然、節度と礼儀が必要であることを

確認しあうべきです。

 

つまり、共同生活をしてゆくためのルールです。

 

その基本となるべきルールを

生活をはじめる前に確り話し合い、

 

それを

お互いに守ることを 忘れないことです。

 

節度とか

礼儀とか

ルールといった言葉をならべると、

 

いかにも

冷たく人情味に欠けていると感じられますが、


そこを

やわらかく補足してゆくのが

 

二人の生活の知恵です。

 

その知恵によって「家族」が出来、

 

一家団欒(だんらん)の家族が築かれていくのです。

 

 

嫁して 人の妻となるは難し、

 

嫁の母たるは さらに難し

 

 


姑も 昔は嫁、嫁も いずれは姑


私が若い頃、

結婚は「家つき、カー(車)つき、ババア抜き」という

はやり言葉がありましたが、

 

核家族がすすんだ今も、

嫁と姑の不仲 を 見たり聞いたりします。

 

しかし、

はたからみると、

嫁と姑の争いは、

 

自分の事のみ考えて、

相手の立場を理解していないように思えます。

 

同じ一生なのだから、

嫁と姑がいちいち角を立てて

争って 怨みあう日を重ねるよりも、

 

まるまると、まるめまるめた心で、

 

嫁と姑が

仲良く暮らしていくことが大事です。

 

 まず、お互いに相手の立場を考慮し、

 

 自分が 姑の立場だったら、

 

 自分が 嫁の立場だったら、

 

 どうするか、

 

 自分に問うてみて下さい。

 

 

 あちらにぶつかり、

 こちらにぶつかって

 

 争ってばかりの人生では、

 つかれてしまいます。

 

 それよりも、

 我執をはなれて、

 

 まわりの人たちと、

 まるくまるく暮らしていくことができれば、

 

 楽しい人生へ転換することができます。

 


嫁 は 姑に似る


ご縁のある方で

仲の好い 働き者のご夫妻がおられます。

 

  息子さん家族は都会に居ますが、

  ここのお嫁さんが、

  実によくできています。

 

  昔から「嫁は姑に似る」といいますが、

 

 嫁姑たがいに認め合って、

 嫁は姑を立て、

 姑は嫁を立てる。

 

   賢い姑に似る、かしこい嫁。

 

 かしこい嫁に似る、賢い姑。

 

心が和む 嫁と姑の関係です。


寸話


従容録(しょうようろく)』(第六五則)に、

首山(しゅざん)禅師のところに一人の僧がやって来て

 

「如何なるか、これと問うた。

 

 首山は、

「新婦、()()れば()()()く」と答えた。

 

「阿家」は姑のこと。

 

とは ちょうど、

花嫁が驢馬(ろば)に乗り、

姑が驢馬の手綱をひいているようなものだという。

 

姑が 無心に 嫁を立てて驢馬に乗せ、

その手綱をとっているさまは、

 

まさにである。


これまで述べた

「愛別離苦」、「怨憎会苦」は、

 

人生を生きていく上で

常に問題になる

人間関係の苦しみを代表するものです。

 

常にまわりの人間の不足をいいながら生きるのが、

     悲しいかな

   私たちの人生の ありのままの姿 ではないでしょうか。


聞くことも また見ることも 心から

 

みな迷いなり みな悟りなり 

 

(島津日新公いろは歌)


*令和五年二月の言葉『四苦八苦』(その八)

 

—―『三話・八苦』「四、求不得苦」に」つづく――


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

皆様の「いいね!」や「シェア」が、著者の大なる励みとなっております。

感謝合掌  住持職:釈 妙円